第4回:祖母の死と心の変化

小学校4年生の時に祖母が癌で亡くなりました。

僕の祖父・祖母・叔母・叔父・従姉妹はみんな静岡にいて、小学校の夏休み・冬休みに入ると、父がいつも大阪から静岡の浜松まで連れて行ってくれて祖父と祖母と過ごしました。

祖父はすごく優しく、いつも温泉に連れて行ってくれたり、おもちゃを買ってくれたり、紙飛行機を一緒に作ってマンションから飛ばしたりして遊んでいました。

祖母は専業主婦で、いつも朝から茶粥と卵焼きを作ってくれて、それがすごく大好きでした。

祖母が亡くなったと聞いて、静岡に父と兄と三人で向かう前、大阪の家で父が泣きながら僕たちに言いました。「お前らが言うことを聞かないから、おばあちゃんが亡くなった」と。

その時に何かが「ぷちっ」と切れて、何もかもどうでもよくなりました。人とは何か、家族とは何か、周りの家族を見ていても温かそうで、大切にしてもらえている。

自分はどうか?

親なりに大切にしてくれているのはわかるが、やはりうちの家族は冷たい。

何もかもが自分の中でどうでもよくなり、いろいろと乱れ始めてグレ始めました。

第3回:空手との出会いと兄との心の壁

小学校4年生から空手を習うことになりました。いじめにあったり自分を守るすべを身につけるという親の意向でしたが、表現が悪いですが、僕は昔から人を殴るという行為・感触がすごく嫌いで嫌悪感すら湧きます。

僕はダンスを習いたかったのですが、すごく厳しかった父は聞き入れる耳を持たず、そのまま通わされ続けました。空手には小学校にいるようないじめっ子たちのような子が沢山いて、
見学の時に双子だといいうこともあり、目立ちすごく緊張しました。

空手が嫌だった理由がもう一つありました。トゥーレットのせいで学校→家→空手と馬鹿にされる時間・気を張る時間が増えたことでした。
僕は小学校の時まだ症状が今よりは軽く 、双子の兄の方が幼少期から酷かった傾向にあります。
空手を習い始めたときに症状が音チックだけだった僕に対し、兄は運動チックもあり、僕が工夫してわからないようにしてるのに兄のチックでばれていじめられたことがあります。
トゥーレットというのは前に同じ症状の人がいると誘発性があるのです。
そのせいで僕も落ち着いている状態から急に発作が出ることも多々あり、すごく笑いものにされました。
次第に兄のことが憎くなり、一緒に居たくなくなり、次第には拒絶までするようになりました。
今になって兄にも凄く悪いことをして傷つけてしまったと思います。
当時は頑張って虐められないように意地を張り、強い口調でしゃべり、子供の自分なりに
虐められない工夫をしてたのに、兄貴が何もかもを一瞬でつぶしていくのが耐えれなかったのです。
でも兄には常に友達のようなしゃべる存在を学校で見かけますが、僕は学校でも家でもずっと」孤独を我慢してるのに、なんで此奴(兄)は空気も読めないのか
だんだん父親と兄貴との心の溝が深まっていきます。
次第には弟の方が癖ましやな。兄貴の方がやばい。と学校でもゆわれるようになり、比べられることにも嫌悪感を覚えます。
大きな声で馬鹿にされてそれを聞いてる周りはどう思ってるかを考えるのも怖い、だいたい
いつもいじめられた後は兄貴が癇癪を起します。僕は冷静で我慢強い反面、兄貴はメンタルも弱くすぐけんかしていました。
自分の気持ちに素直な兄貴が妬ましかった部分もあったんだと今では理解できますが、
当時は家で同じ空気すら吸いたくなかったです。


親は何も知らない、いじめにあっていることを言えない、心配かけたくない、言ってもどうせあしらわれる。今の自分が目の前にいたら抱きしめてあげたいと思います。

第2回:小学校時代 – 症状の自覚と孤独感

小学校2年生から3年生ぐらいになって、自覚症状が現れました。 口で「ぷっ!」と音を鳴らしたり、喉を鳴らしたりしていました。

症状を自覚しだしてから、自分に違和感を持つようになりました。
周りは授業も集中している、僕はずっと周りをキョロキョロしながら、落ち着きがない。
テストの時もよく「カンニングしてる」「答え見てくんな」などとよくゆわれたりもしました。
でも僕は否定をしませんでした。

なぜならカンニングをしてはいけないと思うと余計に見たくなり、衝動が止められなかったからです。心の中では悪いことをしているという認識はあったのを覚えています。

同級生には「気持ち悪い」「うるさい」「唾を吐くな」と言われ、自分では無意識に出ているときに言われて気づく。唾が飛ぶたびに度に最低なことをしてしまった。自分だったら絶対嫌だ。
その感情がいつも汗とともに込み上げてきてすぐさま謝ります。誤って必死にその場を回避できても、相手に「嫌われた」「終わった」「いじめられる」という感情が一気に出てきて、すごく汗をかきました。この感覚は何歳になっても忘れることはありません。
胸ぐらをつかまれたり、叩かれたり、キモイと言われたりする毎日でいつもこの場から消え去りたいと常に思っていました。

授業が終わり学校が終わって家に帰ると、父親にも「なんやねんそれ!!」「やめろ」「そんな癖はよ治せ」と言って怒られていました。そのたびに当時から母のことをよく考えました。
顔も知らない、声も聴いた記憶がない母を思い出して「母が今の僕を見たらなんてゆうのだろう」
でも母はいないし、誰もわかってくれる奴なんていない、そう思い始めて心の声を閉ざしていきます。

第1回:自己紹介と幼少期の記憶トゥーレット障害と共に生きる – ブログシリーズ

はじめまして。大阪在住32歳の男性です(2025年時点)。 トゥーレット障害、ADHD、汚言症を持っています。物心ついた時から母親はおらず、大阪で生まれ双子の兄とシングルファザー家庭で育ちました。32歳になった今、どうやって生きてきたかを文章にするのはとても難しく、記憶が薄れて何をどこから伝えていいかわからない状態です。

しかし、今自分と向き合うことになったこのタイミングで、自分の人生の中で使命と変化の時を感じているので、頑張って書かせていただきます。

出生から保育園、小学校1年生ぐらいまでは、自分でも自覚症状がなかったのか軽症状だったのか、あまり指摘を受けた印象はありません。